「 フォトレポート:出回り続ける修正写真の数々」CNET Japan より)

 現実問題として、コンパクト機においてはほとんどデジタルが席巻し、 一眼レフに至っても、老舗メーカーすら次々と撤退する現状を鑑みても、 デジタルカメラというデバイスが、今後も銀塩カメラを置き換えていくことを 否定する人はいないでしょう。
 私自身もこの潮流を否定する気はないのですが、漠然とではありますが、 ぬぐいきれない不安は感じます。

 銀塩と違って、デジタルカメラであれば撮ってすぐに作品を閲覧できます。 多少の設定ミスや、画角などはあとで修正することもできます。 色味も自分の好みに合わせることも出来ますし、 極端な話、都合の悪いものは消してしまうことすら出来ます。
 しかし、本来、カメラというデバイスを使って行う「真を写す」と言う行為から 逸脱しているような気がしてならないです。

 銀塩でも撮ったものに対してある程度手を加えることは出来ます。 また合成などという技術があるように、現実にない絵を作り出すことも出来ます。 しかし、それが作り出された「偽」か、写し取った「真」かを見分ける技術というものも ある程度確立されていています。
 ところが、デジタルカメラで撮ったデータというものは、 突き詰めていくと CCD が読み込んだ RGB のビット列であって、 日々進化していくグラフィック技術を持ってすれば、 いつかは誰も看破できない「偽」を作り出せてしまうでしょう。
 デジタルカメラを扱う雑誌などにも、 レタッチ技術などを紹介する記事が当たり前のようにあります。
 デジタルカメラというデバイスが単に美術的なグラフィックスを 創り出すための道具と言うことならそれでもよいのでしょうが、 真実を伝えるため伝達手段としての側面において、 カメラというデバイスはいつまで「真を写す」デバイスであり続けられるのでしょうか?
 この疑問に明確な回答が得られない限り、 私の感じる不安はぬぐい去られることはない気がします。