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夢は夢のまま終わらせない…

Posted on Sep 09, 2012 at 17:23

できる理由、できない理由

 最近、特に世間的にという訳でもなく、私的にという訳でもなく、 あることをできない人が「なぜできないかを考える」ことはよくある話ですが、 逆にできる人が「なぜできたか」を考えることは あまり深くなされることがないと言うことを感じるようになりました。

 逆上がりができなかった小さい頃、何度も練習して、なぜできないかを考えて、 そしてまた何度も練習して、そう言うことを誰しも一度は経験しているはずです。
 ただ逆上がりができるようになった瞬間、なぜ今までできなかったかを何度も考えて、 何ができるようになったかを真剣に考えた人は何人いるんでしょうか?

 できる人が言う「努力を繰り返して…」という話は正しい方向に努力しなければ、 闇雲な努力するだけでなんでもできるという話ではないはずですし、 「失敗を繰り返して…」という話は、それはたまたまその人が勝てただけの話で、 世の中負け続けて最後に勝てる保証などどこにもなく、 馬券は買わなければ当たらないと言う話とレベルは変わりません。
 成功談とは得てして深い考慮がなされていない、できない人のためになるような話ではないことが 多いように思うのです。

 しかし、残念ながらたとえどんな些細なことでもできる人とできない人は存在すると思っていて、 できない人をゼロにすることばかりを論じていては何事も前には進みません。
 ですが得てして、できない人を少なくすることと、 できない人のために別の方策を用意することは一緒くたに論議されがちで、 できない人をなくすという不可能である場合の多い正論を振りかざされ、 できない人たちのためにそのことが致命的にならない方法を考えることすら否定されます。

 何か説法のような話になりましたが、 何事も少なからず犠牲をなくして、何事もなし得ません。
 ただ前に進んだ結果として、できる人、できた人になったときに、 できない人、できなかった人たちをより少なくすること、 その人たちのために何が出来るかをもっと真剣に考えることが「決断する」ことの裏返しで 必要になるんだと、最近思います。

Posted on Apr 29, 2012 at 22:52

短絡的スマートフォン・ファースト

「スマートフォン・ファースト」
 日本人なら大多数が知っているようなインターネット企業が掲げたスローガンとして この言葉を聞きました。
 こういう象徴的な言葉として聞いたのは始めてでしたが、 言われてみれば自分の周りでも、スマートフォンに対してコンテンツやサービスを どう展開していくかという話に、最近、終始しているような気がします。

 上記の言葉を掲げた企業は加えて「 PC セカンド」だとも言っていました。 なんと短絡的な思想だ。 言葉尻だけとらえると、そう思わずにはいられません。
 無論、この言葉を掲げた企業が短絡的だと言っているのではありません。 言葉はまだ象徴であって、結果ではないからです。
 ただ世間一般はこの言葉の上っ面にだけをとらえて踊っているように思います。

 スマートフォンブームなのでしょう。それは否定しません。
 ブーム=流行というのは、それが終わって振り返ってみると、 コモディティ化するか、忘れ去られるか、つまり根付くか消えるか二つに一つです。
 今までできなかったことができるようになることでその利便性を得るために流行し、 更なる利便性を提供する存在が現れれば消え、 そう出なければ市場にそれが満ちたところで当たり前になる。
 結局、流行はいつかは終わる訳です。

 一度話を戻します。
 そんな数年のブームを、人的に金銭的にリソースが限られる中小ではなく、 名だたる大企業がリーソスを集中させることがあまりにも短絡的に感じるのです。
「 PC セカンド」という話も同じですが、 生活の中で PC を使うことが当たり前になったときにスマートフォンというものが登場して、 もて囃されている。今ここです。

 スマートフォンが必要とされる真の理由は何なのか?
 それはいつでもどこでもサービスを利用したり、コンテンツを楽しめるということです。 いかに便利なサービスを創り出すか、いかに楽しいコンテンツを創造するか、 それをないがしろにして、スマートフォンに最適化することに 熱中しているようでは先が知れます。

 抽象的な表現になりますが、どこかにあるデータがどこかで処理されどこかでそれが利用される。 それがインターネット上にあるサービスであり、コンテンツです。 どんなデバイスでそれを利用するかは時代によって流行り廃りがあって、 デバイスに依存するものは、そのデバイスが廃れば一緒に消えてしまいます。

 たとえが適切かはわかりませんが、レコードが消えても音楽は消えない。 Anytime, Anywhere, Anyway …いつでもどこでも音楽が楽しめる。 大事なのはそこであって、一過性の流行であふれた小さなデバイスにとらわれることではない。 そう思います。

 以上、単に時代に乗り遅れ始めている人間の戯言かもしれません。注意! d(^_-)-*
Posted on Sep 25, 2011 at 00:52

新ネットビジネス妄想論:隷属からせめて主従へ

 Facebook のように、 ネットの人格とリアルな人格を結びつけようとするサービスが ブレイクスルーを起こす。。。 ならば、今の Facebook 以上の 変革を起こすにはどうすればいいのでしょう。

 そもそも Facebook もそうですが、 SNS(Sorcial Network Service) とは言いますが、 何を持って「 Social (社会的、社交的)」といっているのでしょう?
 2ちゃんねる に代表されるような掲示板が、 (基本的に)どこのだれかも知らない人が壁に書いたメッセージを 眺めているようなものだとすれば、 今の SNS サービスはたまたま同じバスに乗り合わせた人々がお互い適当に自己紹介して、 コミュニケーションをしているようなものだとしか思えません。 Facebook ですら 実名をさらしているとはいっても自己紹介の域は脱しているとは思わないわけです。
 自己紹介をしてコミュニケーションをとることを「 Social 」と呼ぶのであれば、 今の SNS はまだまだ社会性の低いサービスだとしか言いようがないような気がします。

 今の SNS サービスの中のユーザーは、運営側から見れば、 どのような有益な情報を提供しようと、 実社会でどんなに有名な人であろうが単なる「ユーザー」でしかありません。
 また無償のサービスをそのユーザーに提供することでユーザー数を稼ぎ、 それをメディアとして広告収入など得て運営側は収益を得るわけですが、 通常、サービスを利用する側のユーザーが収益を得ることはありません。 つまり SNS の中での役割は運営者とユーザーしか存在しないのです。
 これでは「主従」どころか単なる「隷属」です。
 しかし、サービスを無償提供してユーザーを集め、運営者は広告収入で収益をあげる。 人は代償を支払うことのない広告を見続けることによって無償でサービスを受け続ける、 すべてがこれで成立するわけがありません。
 しかも、多少、異なるサービスを提供したところでたとえば、 どこへ行っても単なるユーザーですから、 結局、 Facebook を越えることはできません。 このモデルで勝てるのは1サービス1会社となることが明白でトップに立てば 寡占化も思うがまま、それが今のネットビジネスだからです。

 しかし、ここまで考えを俯瞰できると現状を打破することは意外に簡単に思えます。 つまり、ユーザーにユーザー以上の「役割」を与えてあげればいいのです。
 運営者にとって有用な情報を提供してくれる、 もしくは広告塔になってくれるリアルに名の売れたユーザーには報償を与える… そういう「隷属」から「主従」の関係くらいになれば、 今の SNS とは大きく異なるサービスモデルが構築できるのではないでしょうか?

 ということで、先般、「廃れた」と表現したグルメサイトの再構築を例にとって、 次回、ビジネスモデルを展開してみたいと思います。 イメージは「グルメギルドを作ろう!」です。
 お楽しみに (^^)
Posted on Jul 08, 2011 at 00:19

新ネットビジネス妄想論: Facebook 万歳…じゃないよ

 前回、長文になってしまって最後の方が Facebook 万歳とも とれるようなオチになっているような気がして、 今回はそれを誤解のないよう補足しておきたいと思います。

 あらかじめ断っておきますが、 Facebook にケチを付けたいわけではありません。
 日本でも普及の兆しを見せ、世界で数億と言うユーザーを抱えていますが、 Facebook の真の価値はそのサービスにあるのではなく、 インターネットの世界に リアルな世界との強い結び付きを持ち込んだことにあると思っています。

 リアルに存在するビジネスをインターネットでのビジネスに置き換えるタイプの ビジネス以外で、今のインターネットにおける、いわゆる新規ビジネスに限界が 見え始めていると言う見解に立つと、 その原因は「不明瞭な人格」なままインターネット上で個人を扱ってしまおう としていることに起因しています。
 すみません。小難しく言おうと努力して失敗しました orz

 要はどこの馬の骨ともわからない、極めつけは正確な人数すらわからない ただのトラフィック相手に金を稼ごうというところに無理があるのです。
 だからといって「おまえ、よくわかんねぇから相手しねぇ」では子供の喧嘩で、 また子供の喧嘩ですめばそれはそれでいいのですが、 今現状ではそれではビジネスが前に進まないことがほとんどです。 それを考えると「しっかり個人情報を登録しないと機能しない」という Facebook は、 これだけ人が集まってしまうとそのサービスを越える価値を 見いだす可能性があるのです。

 つまりたとえばなんですが、サービスとして Facebook に 登録された情報を開示しない 個人にはサービスを提供せず、その開示された情報の信憑性をもって サービスを提供すれば、かなり確かな(少なくとも今よりは確かな) 個人とのやりとりが可能になると考えます。

 では特定多数を相手にできるプラットフォームがあればどんなことをして どんなサービスの展開が考えられるか?
 あまり具体的なイメージではないんですが、 それとなくなんかできそうなアイデアは最近、ちょっとできたので その出来・不出来を問う意味で次回はこれを文章にしてみたいと思います。
Posted on Apr 03, 2011 at 23:33

新ネットビジネス妄想論:グルメサイトはなぜ廃れたのか?

 匿名の人たちの情報は集めれば集めるほど、情報としては価値をなくしていく。 これは「グルメ情報サイト」などが顕著な例です。

 あれを食べたければどこどこのお店がおいしい。
 そんなよくある口コミを集めて情報を提供する。 一時、いや今でもこういうサイトはいっぱいありますが、 個人的には今やお店の地図をみるか運が良ければ割引チケットが手に入る程度にしか 使っていません。 端的に表現すると「広告付きの職業別電話帳」みたいなもんです。
 本来、サイトが提供するはずの口コミで広まったグルメな情報など 全く期待していないわけです。

 なぜこうなるのでしょう?
 まず明確な理由の一つは匿名の情報を無制限に集めるからでしょう。 掲示板のようにお店の情報を書き込めば一票。 無料の会員制で書き込みを制限しているような場合もあるようですが、 そんなものが機能しているように見えるサイトを知りません。
 またサイトとしての社会的体裁があるので、酷評は削除されていきます。 しかし、不思議なもので、酷評は削除されますが、 明らかに誉めすぎというのは削除されにくい傾向があります。
 なにより情報を無制限に取り込むので、サイトを運営していくためにどんどん運用費が 膨らみますから、当然収益がないと廃れる前に潰れるわけで、 その収益モデルとして「広告」に頼ることになることが、今はほとんどなわけです。 グルメサイトの広告といえば、飲食店や食料品の広告が多くなるのは当然で、 こうなるとサイトで上位に紹介するから広告を出してもらうことを お願いするようになるのもまたこれ当然で、 結果として「口コミのグルメ情報を提供する」というサイト本来の存在価値は どんどん減少していくというのが必然となるわけです。
 結果、大きくなればなるほど、サイトが本来提供するはずの情報が 陳腐化していくという奇妙に思える現象が起こってしまったわけです。 論理的に考えると皮肉な話です。

 現実世界で価値ある情報とはある程度量として形成された場合、 本来、次には質を維持、もしくは高めていく努力をしていかなければなりません。 しかし、インターネットの場合、現状のように匿名の情報を集め続ける限り、 なかなかこれは難しいと考えざる得ません。

 一手として、統計学的に情報を精錬していく方法もあるでしょう。 これはなぜかどこも大手を振ってやりませんねぇ…なぜでしょう?
 逆に常識的な統計手法はすでに適用しているのでしょうが、 その昔、NASA が予算縮小されたときに流出した大量の数学者を金融業界が受け皿になり 高度な金融商品を生み出した話があり、リーマンショック以後の金融危機で また大量に流出したはずの人材、特に数学者などは IT 業界でしっかり捕まえれば もっと高度な数学的統計手法などが応用できたのではないのか… とも思いますがすでにあとの祭りでしょう。
 こういう意味ではインターネットで提供されている情報は まだまだ統計学的にみると「幼稚」とも言え、 ここに一つビジネスのチャンスはあると思います。
 反面、数学的、統計学的に精錬された「正直な情報」というのは、 事実を多少詐称する(しなければならない)側面のある広告モデルには マッチしない可能性はあり、情報そのものが高く売れるそういう情報を選ぶ必要があります。

 まぁ個人的にこの方向の議論は苦手なのでここまでにしておいて、 こういう量として形成された情報の質を維持するための検証、 もしくはそもそも量としての情報の形成の仕方に問題があって、 ここがビジネスの種になるような気はしています。

 以上、このような分析を踏まえると、 Facebook の存在を考えてみると 非常におもしろく思えてくるはずです。
 なぜなら Facebook は「実名で登録する」ことが (強制ではないですが)前提とされており、また実際、 この前提を守らないと Facebook 内での 「自分」がうまく機能しなくなるためか実名で登録している人が多く、 また逆にそうでない人も比較的見分けやすくなっているからです。
# 無論、何らかの目的のために巧妙に人格を詐称している人もいるでしょうが、 それはまた現実社会にも存在することで、誤差の範囲でしょう。

 つまり Facebook で形成される口コミ情報は、 インターネット上の一般的な口コミ情報より精度が高いことが容易に想像がつきます。
 だからこそ今、メディアとして Facebook が 注目されるのだと思っています。
 しかし、ここで言いたいのは Facebook 万歳!という話ではなく、 情報の出自を現実社会の個人にできる限り結びつけて「一票の重み」を 作り出すことができれば情報の精度は上げられるということです。
 そして結びつけられた個人への検証を行えば、 この集合から生み出される情報の質も維持できるということです。

 さてこれをどうビジネスとして組み立てるか?
 それが問題なんですよね…長考します (^^;
Posted on Mar 09, 2011 at 23:44

新ネットビジネス妄想論:砂漠に埋もれていく情報

「情報を売る」
 簡単に言ってしまいましたが、では何の情報を売るのか?という話を始める前に、 ネット上での情報の価値について、現状に対する所感をまとめておきます。

 インターネットで漠然と価値のある情報を探すと言うことは、広大な砂漠の中であるかどうかもわからない、 見えていても飲める水をどれだけたたえているかもわからない小さなオアシスを 探しているに等しいのが現状です。

 インターネット創世記、急速に増え始めたウェブページに対して「検索」というサービスを Yahoo! をはじめとする企業なり団体なりが提供を始めました。
 しかし、それを上回る爆発的なスピードで増加する情報量に追いつかず、 いくら検索しても必要な情報に行き着くことが難しくなってきていたところに Google が登場し、 ネット上の情報に「重み」がつけられ再び秩序を取り戻してきたように見えました。
 しかし、Google は広告収入を その規模を拡大する原資とするモデルとしたために、 その重み付けを逆手に取ってその収入をかすめ取る策が練られ、 また何より情報そのものも写真や音声、動画など情報そのものを知覚しないと重み付けが 困難な情報も増え続け、大多数の人間にとってはほとんど意味のない情報が 散乱しているのが現状となっています。
 ほぼ無制限に大きくなり続ける砂漠をさまよいながら他人に売るに値する情報を紡ぎ出す。 これは相当骨の折れる作業です。

 ではなぜネット上の情報は無秩序に増え続けるのか?
 あらかじめ言っておきますが、ネット上に情報が増え続けることを「悪」だとは思っていません。 ただ雑然と秩序なく増え続ける情報によって、本当に価値のあるはずの情報が、 その増加のスピードと同じかそれ以上にのスピードで埋もれていくことには問題があると思っています。

 無秩序に情報が増えている最大の理由の一つは、 絶賛されている「フリーミアム」というビジネスモデルのおかげで だれでも無料でネット上に情報を放置しておけることに起因しています。
 ネット上で「個」を識別するのは非常に困難ですので、 1アカウント○ MB まで無料とか言っても、使い勝手の部分を無視して一人が 複数アカウントを保持すれば自分が使いたい容量を確保することが容易にできてしまいます。
 また○月間アクセスがなければ消しますというパターンも、 PC で定期的に自動アクセスするようにしておけば消えることもありませんし、 また同種のサービスは競争しますので、容量などの制限は時間がたつにつれ 緩和される方向に進んでいきます。
 つまりちょっとの努力を惜しまなければ、ただでネット上に情報を散らかし放題散らかせるのですから、 特に必要に差し迫られなければそれらを整理しようなどとは思わなくなっているわけです。

 第三者が整理をしようとしても、それを上回る勢いで、情報は増え続け散乱し続ける… ここまで考えが行き着いてしまうと、ネット上で意味ある情報を機械的に紡ぎ出すことは不可能、 もしくは無意味に思えるかもしれません。
 ただ Facebook の隆盛が、 インターネットのこの現状に対するアンチテーゼなのでは… と最近思い始めています。

 ちょっと御託ばかりが長くなったので、次回は例を交えながら この思考をもうちょっと具体的に表現してみます。
Posted on Feb 01, 2011 at 23:30

ネットビジネス妄想論:まずはじめに

 そろそろ死語になりつつあるのではないかと思われる 「システムエンジニア」というたいそうな看板を背負って、 要は IT 関連システムの便利屋さんを生業にしていると、 昨今、よく会社からこういうことを言われます。
「すぐ事業化できるような新しいネットビジネスを考えろ!」

 すぐ事業化できるようなネットビジネス考えついたら、 すぐにサラリーマン SE てな職業とはおさらばしてますがな… というつっこみはひとまずおいといて、そういうことを考える時間を強制的に作らされたり、 この話題で他人とディスカッションをしたりする機会を得ることになります。
 個人的には妄想好きのご託好きなのでこういう時間はそれなりに楽しく過ごせるのですが、 その時に頭の中にできあがった思考を、記憶の忘却に任せて無に帰してしまうのはもったいなく思い、 せっかくブログなんてことを続けているのでここへ文章としてまとめていこうと思い立ちました。

 さてまずなにから書くかと考えたときに、 今現状のネインターネット上のビジネスに対して常日頃感じていることをまとめておくことにしました。

 今のネットビジネスは誤解を恐れずに一言でいうと「日本では終わってる」と感じています。
 現実世界のビジネスモデルをネット上に置き換える物販のようなサービスは、 こと日本においてはリアルビジネスのしがらみを拭いきることは後発・新参には難しく、 またどうしても世界に打ってでるサービスを立ち上げるとなると 物流という非常に難しい問題を解決しなくてはなりません。

 となるとリアルな物品が流通しないアプリケーションサービスなどでは広告収入をあてにして ビジネスモデルを構築するのが常ですが、 これは日本の場合、ネット広告収入そのものの単価が非常に低いために、 一気に突き抜けるほどの勢いでユーザ数を伸ばさなければ、このモデルは成立しません。
 フリーミアムと呼ばれるネットビジネスで成功例の多い諸外国の場合、 そもそもネットの広告収入が日本とは桁違いになるほど大きいですし、 すぐに広告収入でモデルが成り立たなくても とんちんかんなビジネスでなければベンチャーキャピタルなどから資金を調達することも、 少なくとも日本よりは門戸が広いのです。
 日本では新規ビジネスというとすぐに IPO (株式公開)に向かいますが、 最近だと FacebookTwitterGroupon など あれだけ大きくなっても株式による資金調達には走らない理由の一端はそういうところにもあるのでしょう。

 急成長するまでの基礎体力となる資金がまず手に入らない。 なんとかこうにか立ち上がったとしても、成長期に入るまで資金を得つづけられない。
 だから世界を見渡しても日本発と胸を張れるサービスで、 全く無名の一個人がネットビジネスで急速に台頭してくることはないのですし、 世界を征するアイデアは海外に飛び出して実現するか、たとえ日本で一時成功を収めたとしても、 出る杭として打たれるか、海外の企業に買収されるか…結局日本という国には何も残らないのです。 だからこそ「日本では終わっている」と感じるのです。

 そんなぐだぐだ考えてたら起業などできるか!失敗しても次を考えればいい!!
 そう言う人もいるでしょう。確かによく聞きますその台詞。しかし、それは成功してから言える台詞で、 個人では返しきれない借金を背負って這いつくばるしかできない人間から 少なくと私はそんな台詞は聞いたことがありません。

 これは妄想論です。ねらうは一撃必殺。 成功しなければご託を並べる意味などありません。それこそ寝言です。

 かといって悲観論を並べ立てても生産性はなく無理無理で話が終わってしまいますし、 愛国主義者でもないので日本でビジネスを起こして 国内外の企業に売り払ってしまえればひとまずこれを成功としましょう。
 そして物販より「情報をそのものを売る」もしくは「情報を作り出すモデルを売る」というビジネスが 個人で資金力が潤沢でなくても実現しやすいように思います。 「金も物もなければアイデアを売る」これしかないでしょうし。

 こういう方向で最近、ずっと思考を続けています。

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 こういう話を今後、気が向いたときに続けていこうと思いますが、 もしこのエントリを読んで感想なり反論なり、私に足りてない知識をご教授いただくなり 何でもかまいませんのでコメントなどいただければ幸甚です。
 できあがった原稿があってエントリしているわけではありませんので、 もしご意見などがいただければ可能な限り反映して、今後、思考を続けていければと思っています。
 めざせ!成り上がり成金!! q(^O^)p
# ただし炎上は勘弁です m(_ _)m
Posted on May 01, 2010 at 00:45

プログラムは文学、ならばシステム構築は…

「プログラムは文学だ」
 プログラムのいろはくらいを覚えていい気になっていた自分に、 プログラミングのなんたるかを教えてくれたお師匠、大学の助教授(当時)の言葉です。
 実際、名を馳せた人のプログラムからどうでもいいようなプログラムまでさんざん読まされましたが、 いわゆる天才と賞される人のプログラムって、確かに読みやすく、 読み進める内に構造化された関数やデータに秘められた深い意図を理解できるようになります。 あるしきい値を越え、そういうことが理解できるようになると、 美しいプログラムを読むことが急に楽しくなってきたものです。

 研究室創設以来の不肖の弟子と評されながら、大学をあとにして、 そうそうとプログラムで飯を食っていくことをあきらめ、 しがないサラリーマン SE としてシステム構築を生業としている今、 プログラムが文学であるならば、「システム構築は演劇だ」と思ったりしています。

 人が欲しているものを調査し、資金を確保して、 ネットワークやプラットフォームという大道具、小道具をそろえて、 プログラムや業務フローという台本を書く。
 それらをたくさんの裏方で整備して、最終的に実際にそれ使う業務に従事する人たちという役者さんに それを演じてもらう。
 その演劇のプロデューサー、演出家とは、 システム構築においてはさしあたりプロジェクトマネージャーというところでしょうか?

 最近、プロジェクトマネージャーなどという柄にもない仕事について、本当にきついですが、 道をそれた文学家の不肖の弟子はそんなことを考えながら、それでもそんな一つの境地を目指しています。
Posted on Mar 21, 2010 at 23:32

経営者の視点

 いい年になって、会社組織などという物に身を置いていると、 さしてもらっているものも上がっていないのに、看板だけは上等になっていくものです。
 上等な看板だけ背負わされるだけならまだいいんですが、 決して上等ではない無理難題を押しつけられることが比例して多くなってきます。
 たとえば「なんでこんなにコストがかかるんだ!」とほぼ間違いなく言われる開発仕事、 これの次は「これだけかかるコストを論理的に説明してみろ!!」となります。 そりゃぁまぁ当てずっぽうで盛った費用ではないですから説明はしますが、 その前に「なんでこれ以下のコストでできるか論理的根拠を示してください」と言いたい。
 まぁそんなこといっても始まらないので、懇々と説明するわけですが、 最後には「もっと経営者の視点でもの考えろ」と言う決めせりふをぶつけられることがあります。

「経営者の視点で考えろ」
 これを金言のように思っている人もいるようですが、 個人的には言われなくとも経営者としての視点でいつも行動しているつもりです。 ただ、それは自分の属している会社の経営者としての視点ではなく、 自分一個人商店としての経営者の視点でです。
 もし、このせりふを言った人が同じことを上に言われ、 それに感化され私にも同じことを言っているのだとすると、 それはもう痛いを通り越して哀れむばかりです。

 真に最後の最後まで、その会社の経営者としての視点で行動するべき人間は、 その会社の実質的な所有者、もしくは最大限大きくみて取締役という肩書きを 持っている人だけでしょう。
 それ以外の人間が、自分の持ち物でもない会社という人のもののために経営者の視点を持って、 自己の利益を捨て、作り上げた人間関係をないがしろにしたのだとしたら、 それは「経営者の視点」ではなく単に「経営者の恣意」を植え付けられているだけで、 下品な精神コントロールを受けていることに同じです。
 一個人商店での経営者の視点であれば、 その視点を人に押しつけるようなまねはそもそもしなくて良いはずです。 それに押しつけられたとしても、個人商店が倒れるとき、逃げられないのは結局は本人だけですから。
 ところが「経営者の視点」などと連呼する輩に限って、逃げ足だけは速いのが世の常というのも、 滑稽やら悲しいやら。要するに「経営者の視点」などと言うものは 人に押しつけるものでもなく、ましてや講釈するものでもない。 自信と一緒で内に秘めるものだと個人的には思うわけです。

 私の周りだけかもしれませんが、最近、 人の会社の経営者としての視点を持った哀れな人たちが余りにも多すぎるような気がしてなりません。



 えぇ単なるグチです (_ _;>
Posted on Mar 14, 2010 at 21:55

振り子は揺れる 2010

 ちょっとここ最近、いろんなところで似通ったテーマで フリーディスカッション的な会話をする機会に恵まれ、 日頃なんとなく考えていることが自分の中でちょっとした理屈になったので、 忘却の彼方に行ってしまわないうちにまとめておきたいと思います。

 今やウェブアプリケーション全盛の時代ではありますが、 ウェブアプリケーションだからといって何でもかんでも流行るわけでは、当然ありません。

 ではなにが決め手か?
 そう考えると、キーワードは「 Anytime, Anywhere, Anyway (いつでもどこでも何ででも)」ではないかと 思っていて、たとえば Google の各種サービスや TwitterRemember The Milk などは、 これを高いレベルで実現しているからこそメジャーなサービスになり得たのだと考えます。
「高いレベルで」という前置きしたのは、今の技術レベルでは特に Anywhere (どこでも)は 完全には実現できないからで Anyway (何ででも)、 つまり PC と言わずスマートフォンと言わず携帯電話でもサービスが利用できるようにすることで、 ほとんどいつでも (Anytime) 利用できるというサービスレベルを実現していて、 その実現方法としてウェブアプリケーションという技術にマッチしているのでしょう。

 しかし、これにも弊害はあります。
 個人の情報というのは様々であって、 しかしながら個々の情報はそれぞれにマッチしたアプリケーションサービスを選択しなければなりません。 その情報を扱うのは人間で、有機的に個々の情報を結びつけるのは人間の役目になりますが、 個々の情報にマッチしたウェブアプリケーションはそれぞれにユーザインターフェイスが ばらばらになってしまいがちです。
 なにが言いたいかというと、コンタクトリストは Windows Live がいいけど、 スケジュールは Google カレンダー、 To Do はやっぱ RTM だよねぇ。。。 となると各々 ID とパスワードを管理しなければならないは、 サイトによってメニューの並びなどのテイストは違うは、 データの操作に関してもこっちは Flash でこっちは AJAX 、あっちは HTML5 で、 ドラッグアンドドロップなんて操作もあっちではできるけどこっちでできないなんてことに 現状なってるわけです。
 様々な情報を有機的に結びつけて意味づけるのはどこまで行っても人間な訳ですから、 その人間が扱うインターフェイスは、 その個人が気に入った「一つ」であった方がいいのではないかと思うのです。

 これの問題を解決するために、単純に各ウェブサービスから情報を集めてきて、 オペレーションインターフェイスだけを提供するウェブサービスを提供するというのも一案でしょう。
 しかし、ユーザインタフェースをウェブ技術に絞って実現した、 パーソナライズポータル的ないまいちぱっとしないサービスは各所にもうありますし、 個人的には PC なら優れたインターフェイス (もしくは各個人がお気に入りのインターフェイス)が ローカルアプリケーションという形ですでにある(はず)なので、 プロキシ的なアプリケーションを用意して、 慣れたローカルアプリケーションでこれを利用するというのがいいように思うのです。

 なにより今は端末側にパワーが有り余ってますし、 Google さんはやめる方向に考えているようですが Gears を少し発展させた仕組みや、 最近は仮想化がはやりですので、一通りのサーバアプリケーションを仮想アプライアンス化して、 クライアントとは別にローカルで動かしてしまうというのも一手でしょう。
 この方法を採ればローカル側にパワーを含めたりソースがかなり必要になるので、 振れた振り子もそろそろ戻ってくるのではないかと。

 実はもうちょっと具体的なイメージがあるのですが、 この話を私の口からでるままに聞いていたある人が、ちょっとひらめいてたみたいなので、 ビジネスの邪魔になってはいかんのでチャックしておきます (^^;
 しかし、ひょっとして、このエントリーを読んでひらめいた方はどうぞご遠慮なく。
 私は自分のセンスにあったいけてるアプリケーションを一日でも早く使いたいので… (^_-)-*
# 自分で作れよと言う話はおいといて。。。 (^^;;;;;>