最近、特に世間的にという訳でもなく、私的にという訳でもなく、 あることをできない人が「なぜできないかを考える」ことはよくある話ですが、 逆にできる人が「なぜできたか」を考えることは あまり深くなされることがないと言うことを感じるようになりました。

 逆上がりができなかった小さい頃、何度も練習して、なぜできないかを考えて、 そしてまた何度も練習して、そう言うことを誰しも一度は経験しているはずです。
 ただ逆上がりができるようになった瞬間、なぜ今までできなかったかを何度も考えて、 何ができるようになったかを真剣に考えた人は何人いるんでしょうか?

 できる人が言う「努力を繰り返して…」という話は正しい方向に努力しなければ、 闇雲な努力するだけでなんでもできるという話ではないはずですし、 「失敗を繰り返して…」という話は、それはたまたまその人が勝てただけの話で、 世の中負け続けて最後に勝てる保証などどこにもなく、 馬券は買わなければ当たらないと言う話とレベルは変わりません。
 成功談とは得てして深い考慮がなされていない、できない人のためになるような話ではないことが 多いように思うのです。

 しかし、残念ながらたとえどんな些細なことでもできる人とできない人は存在すると思っていて、 できない人をゼロにすることばかりを論じていては何事も前には進みません。
 ですが得てして、できない人を少なくすることと、 できない人のために別の方策を用意することは一緒くたに論議されがちで、 できない人をなくすという不可能である場合の多い正論を振りかざされ、 できない人たちのためにそのことが致命的にならない方法を考えることすら否定されます。

 何か説法のような話になりましたが、 何事も少なからず犠牲をなくして、何事もなし得ません。
 ただ前に進んだ結果として、できる人、できた人になったときに、 できない人、できなかった人たちをより少なくすること、 その人たちのために何が出来るかをもっと真剣に考えることが「決断する」ことの裏返しで 必要になるんだと、最近思います。